新企画「山の対談」シリーズ、はじめました!
「山の対談」では、元エベレスト登山ガイドで、GoALPで「JMIA安心安全登山公開講座」として山のことを教えて下さっている安村 淳さんによる、登山界の著名人や登山インストラクターとの対談記録をお届けします。
山のスペシャリストによる山のスペシャリストとの対談、山に登る人であれば興味の尽きない内容にどうぞご期待ください。
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第一回目は、日本登山インストラクターズ協会理事長で、その昔NHKの登山番組に出演し、日本百名山のブーム火付け役とも言われた岩崎元郎氏です。
氏のこれまでの登山人生を振り返っていただきながら、現在の日本の登山界がかかえる課題についても提言いただきました。
<プロフィール>
高校1年の秋に山と出会い、高校2年のゴールデンウィークから山登りを始め、1963年昭和山岳会へ入会し、登山の基本を学ぶ、1970年蒼山会同人を創立、南アルプスなどを登る。1981年ネパール・ニルギリ南峰6839mにチャレンジ、あえなく敗退、同年11月に無名山塾を創立し、登山教室を開講。1995年NHK教育テレビ「中高年のための登山学」、1997年「日本百名山に登る」等1999年まで5年にわたるテレビ出演で百名山ブームの火付け役となり、以後「ぼくの新日本百名山」や「地球を遠足」などで登山の大衆化を押し進める。現在、無名山塾顧問、日本登山インストラクターズ協会理事長ぼくの新日本百名山(2007年)、今そこにある山の危険(2014年)、地球を遠足(2019年)など著書多数。
岩崎さん、登山人生60年の足跡を語る
目次
安村;今日は日本登山インストラクターズ協会理事長の岩崎元郎さんから、60年間の登山活動をベースに、これから登山を始める人やいま登っている人達の参考になる、登山の経験や安全登山、現在の登山界の問題などについてお話を伺いたいと思います。
山を登るきっかけはキャランバンシューズとの出会い
安村;登山を始められたきっかけは何でしたか?
岩崎;きっかけは青いキャラバンシューズとの出会いです。高校1年の秋にキャンプで河口湖に行った時、三つ峠駅で乗り込んできた登山者が履いていた青いキャラバンシューズを見て、こんな靴を履いて山に登りたいなと思ったのがきっかけです。
安村;キャラバンシューズは1950年代にマナスル8163m初登頂を目指した日本登山隊のアプローチ用として開発された軽登山靴ですね。1956年に第3次隊が初登頂して、日本で大登山ブームが起き、キャランバンシューズが一気に広まりましたが、私も買いました。岩崎さんはこの時の記録映画「マナスルに立つ」をご覧になりましたか?
岩崎;見ましたよ。文部省推薦ですね。学校行事で小学校の先生に引率され、自由が丘の映画館で見ました。
安村;私も見ましたが、当時は私も小学生で山には全く興味はありませんでしたので、ただただ凄いなと思っただけでした。しかし、このマナスル初登頂が日本の山岳会や山の登り方に大きな影響を与えましたね。
高校時代は毎月1回登っていました
安村;高校時代の登山活動をお聞かせください。
岩崎;初めての山は高校2年の奥多摩・川苔山から雲取山縦走でした。
安村;それは凄いですね。私の初めての山は高尾山でしたが…
岩崎;いやいや、それが本を読んで頭でっかちなので計画は大きのですが、いざ山に行くと 心細くなり、偶然早稲田大学の学生さんが5人いたので、お兄さん方に付いて一緒に天祖山迄行って、そこから下山しました。その後天祖山~雲取山まで繋ぎましたが、初めての山は計画倒れでしたね。
また、初めての沢登りは丹沢・葛葉川本谷でしたが、これも本を読んで「沢登りをやらなければ山屋として大きな顔が出来ない」と思って行きました。
なんだかんだ月1回は山に行き、高校3年の時に金峰山~雲取山迄奥秩父主脈を縦走しましたが、これは大変自信になりました。
昭和山岳会(6年間在籍)時代・・山を勉強する
安村;何故昭和山岳会に入会したのですか?
岩崎;初めは雲表倶楽部の入会説明会に行きましたら、松本龍雄さん*から「GWの合宿は北鎌尾根千丈沢側壁の開拓合宿だ。運が良ければ初登だぞ!」と言われ、こんな凄い会に入ったら大変だと思って止めました。
*松本龍雄氏;冬季初登攀時代に数々の記録を持つ伝説のクライマー。
安村;松本さんですか、伝説のクライマーですね。私はお年を召してからお会いしましたがお元気な方で、若い頃にはさぞかし尖っていただろうなと思います。
岩崎;それで次に昭和山岳会の説明会に行きましたら、「山は歩くのが基本だから、新人時代は歩かせる」と聞いて、こっちの方が安心できるなと思い昭和山岳会に入りました。
安村;昭和山岳会は優れた登山学校だったそうですが、6年間どういう修業をされましたか?
岩崎;1956年のマナスル初登頂の影響で、当時は山に登る人は皆さんヒマラヤを目標にしていて、ヒマラヤは極地法*で登る時代だったので、日本中の山岳会は自分たちが登る為にサポート要員(ボッカ要員)を育てていました。
*極地法;チームでベースキャンプから前進キャンプを出しながら登る登山スタイル。
昭和山岳会は歩くのが基本なので、入会して最初の新人訓練は「カモシカ山行」でした。夜10時に青梅線御岳駅を歩きだし一昼夜歩き
続け、翌日の夜10時に高尾駅に着きました。1年目2年目と2回歩きましたが、一昼夜歩き続けられて自信になりましたね。
安村;カモシカ山行は現在のハセツネカップ*の原型で、現在はハセツネカップには山屋さんはあまり出ませんが、初めた当初は皆さん山屋さんだけでしたね。
*ハセツネカップ;日本山岳耐久レース~長谷川恒夫CUP。1991年パキスタン・ウルタルⅡ峰の雪崩で遭難した天才クライマー故長谷川恒夫氏を記念して、1992年から始まった人気のトレランレース。
岩崎;次の新人訓練はボッカトレーニングでした。石を詰めた30㎏のキスリングザック*を当時身長147cm・体重38kgの私が担ぐのですから、大変でしたよ。
*キスリングザック;昔の横長のザック、荷物のバランスが難しかった。
安村;当時はボッカ訓練は30㎏を担がせるのは当たり前でしたが、今ならいじめですね。大問題になりますよ。その前にそんな山岳会には誰も入らないと思いますが・・・。
岩崎;次の新人訓練は夏合宿で、北アルプス・針ノ木大雪渓から黒部湖に下りて五色ヶ原へ登り返すと言う合宿で、僕は歩き始めて10分でばてましたね。その次は谷川岳の集中登山で、新人の私は30mの麻ザイルを持たされ、それだけでザックが一杯になりました。
安村;麻ザイルは私も買いましたが、太くて硬くて重く、亜麻仁油を塗りました。
岩崎:そうです。亜麻仁油は今は食べる物の様ですが、当時はザイルに塗りましたよ。
それから冬合宿は北鎌尾根を極地法で槍ヶ岳に登るので、新人の私は湯俣から毎日荷上げをしていました。
冬の北鎌尾根
2年目になると岩登りや沢登りに連れて行ってくれました。
今でも覚えていますが、2年目の7月に先輩がほとんど沢登りの経験のない僕を谷川岳赤谷川本谷に連れて行ってくれましたが、こういう大きな沢に登るのはとても良い経験になりましたね。
安村;昭和山岳会にはそういう教育日程があったわけですね。とても優れたカリキュラムだと思います。
岩崎;先程も言いましたが当時は極地法で登る時代でしたので、どこの山岳会でも先輩たちは荷物を背負う人を育てなければならないわけで、毎月1回訓練山行をやっていたのですが、登山スタイルがアルパインスタイル*になるとボッカ要員はいらないわけですから、後輩を育てる必要はないわけですよ。訓練山行などで後輩を育てなくなり、それが山岳会の衰退の1因になったのではないかなと思います。
*アルパインスタイル;ベースキャンプを出た後は一気に登る登山スタイル。
安村;登山スタイルが変わったのが大きかったのですね。
岩崎;こういう具合に山岳会が後輩を育てなくなったので、これはまずいと思って無名山塾を作ったわけです。
安村;何故昭和山岳会を卒業したのですか?
岩崎;僕が入会した時は体育会の様な感じではなかったのですが、段々体育会的になってきて、他会とは登ってはいけない等と縛りがきつかったのですよ。
それなら自分で登った方が良いと考えて、退会をして蒼山会同人を立ち上げました。
蒼山会同人(10年間在籍)時代・・自分の山を登る
安村;1970年に創設した蒼山会同人はどういう山岳会でしたか?
岩崎;蒼山会は同人制*で自分が登りたい山を自由に登って良い会です。
*同人制;「同じ志の人の集まり」で、山の場合は山岳会の様な縛りは無い集まり。
集会にも色々な会の人が来ました。登山活動を継続する為にはテーマがあった方が良いと思い、私は南アルプスを中心に、夏は沢登り、冬は縦走登山を繰り返しました。
私は体力が無いので、吹雪になると体力がある人は生き残るが自分は駄目だから、冬は北アルプスでは悪天が1週間続くが、南アルプスなら3日で回復するので、自分は南アルプスが良いと思い、何年もかけて冬の南アルプスのほとんどのピークに立ちました。
山はでかいなと感じさせてくれたのは南アルプスでした。
安村;1981年のネパール・ニルギリ南峰6839m登山は如何でしたか?
岩崎;ニルギリ南峰は集会に武川さん*が来て「岩崎さん、ネパールに行きませんか?」と言われて、高所登山の経験はないが一度は行ってみても良いなと思い、みんなに声を掛けたら6人集まり、1人100万円ずつ負担をして1981年に行きました。
*武川俊二氏;登山家、現(公社)日本山岳ガイド協会理事長
安村;登山はどうでしたか?
岩崎;ニルギリ南峰は双耳峰で中央に綺麗な雪のクーロアール*があり、アタック隊がそれを登っていたら、朝は雪がしまっていて良いのだが陽が当たると雪が柔らかくなり、無線で「雪崩と一緒に墜落して、デブリに突き刺さって止まった」との連絡があったので、登山を中止、「危ないから登山は止めて帰る」ことにしました。我々は自費でスポンサーはなく、誰からも文句は言われないので、さっさと中止にしました。
*クーロアール;急な広い溝
安村;ニルギリは私も知っていますよ。実は私はその何年か後にアンナプルナⅠ峰8091m⓫に行ったのですよ。アンナプルナⅠ峰のBCはニルギリのBCを通って行くのですが、ニルギリ隊の人から飲みに来てくださいと言われ、ニルギリBCでビールを飲んでひっくり返った事があります。私はただでさえ酒に弱いのに高所で飲むと更に効き、死にそうになりましたよ。
岩崎;アンナプルナⅠ峰はどうでしたか?
安村;登山はC2(6500m)に荷上げした装備の全てがテントと一緒に雪崩で流されて、それであっけなく終わりました。大きな石を蹴っ飛ばすと足が痛いので、小さな石を選んで蹴っ飛ばし、「えー、くそ」と言いながら帰りました。
岩崎;ヒマラヤの雪崩は怖いね。
小西政継さん*もマナスルで雪崩で亡くなったのではないかな?
*小西政継氏;登山家、山学同志会チーフリーダー、ヨーロッパアルプス/ヒマラヤ等で活躍。
安村;雪崩かどうかは分かりませんが、私は1997年にシシャパンマ8014mに行きましたが、その時のシェルパの一人が前年マナスルで小西さんに付いたシェルパで、彼に聞きましたら小西さんは回頂上アタックに失敗して、3回目のアタックに一人で出て帰らなかったそうです。
私なら1回目のアタックを失敗したらすぐ帰りますが、強い人は2回失敗しても3回目に1人でアタックするのですから、強い人は返って危ないですね。
無名山塾を創立・・登山を教える
安村;ニルギリ南峰から帰ってすぐに無名山塾を創立したのですか?
岩崎;帰国後11月に立ち上げました。松下村塾にあやかって無名山塾としました。
安村;何故創立したのですか?
岩崎;先程もお話ししましたが山岳会が衰退して登山学校として機能しなくなったので、常々登山学校の必要性を痛感していましたからです。
安村;無名山塾はどんなカリキュラムでしたか?
岩崎;机上講座は初めは3人でスタートしましたが、30人60人と増えて、3年目には講座参加者が100人を超える様になりました。
また、実技は昭和山岳会にならってボッカ訓練やカモシカ山行等の歩行訓練、岩登りは日和田山の岩場やつづら岩で、沢登りは葛葉川本谷や小川谷廊下等で、雪山や氷瀑等の教室もやりましたし、夏には剣沢に定着して夏山合宿や、年末年始には仙丈岳や甲斐駒ヶ岳を目標に冬山合宿もやりましたよ。
安村;なかなか本格的ですね。今はボッカ訓練なんかには誰も来ませんよ。大切なのですが…
岩崎;ボッカ訓練は最初は丹沢・大倉尾根で石を担ぎ上げていましたが、尊仏山荘から「石を上げるのならうちの荷物を上げてよ」と言われ、キロ100円で請け負って最盛期には10万円になりました。
*丹沢・大倉尾根;標高差1200m、標準コースタイム3時間半、ただひたすらに登るので通称「馬鹿尾根」と呼ばれている。
安村;1日で1トン荷上げしたという事ですか、それは凄いですね。岩崎さんが無名山塾で登山を教え始めたのは、何か理由があるのでしょうか?
岩崎;多分教えるのが好きだったのではないかな?例えばゆっくり歩けば疲れませんよとか、やはり教えるのが好きだったのでしょうね。
安村;また色々と本も書いていられますが、あれも教える一貫ですか?
岩崎;色々と原稿依頼が来ましたので、登山の技術的な本を沢山書きました。
安村;本当に教えるのが好きだったのですね。
百名山ブームに火をつけ、登山の大衆化を進める
安村;1995年からみなみらんぼうさんとのコンビで行ったNHK教育テレビの「中高年のための登山学」、1997年からは山内賢さんと「日本百名山をめざす」等で、岩崎さんが百名山ブームの火付け役となりましたが、どんないきさつで始められたのですか?
*みなみらんぼう氏;フォークシンガー、シンガーソングライター
*山内賢氏;俳優、歌手、司会者
岩崎;「日本百名山を目指す」は「中高年のための登山学」の一環で、この二つの番組で中高年登山者が急に増えて、困った事に遭難が増えたのです。
安村;これを始めたいきさつは?
岩崎;どちらもNHKの教育テレビですので、色々な講座の一環なのです。
NHK内で中高年の登山者が増えてきたので、中高年向けの登山講座をやってみたらどうかとなったようです。その頃の私の活動が目についたようで、私に声が掛かりました。
安村;コンビを組んだみなみらんぼうさんは山を登る方でしたか?
岩崎;山は登らないが、自然が好きだったようです。
安村;日本百名山ブームの火をつけたのはこの二つの番組ですね。
岩崎;いや、この前にNHKに日本百名山と言う10分間の帯番組がありまして、これが火付け役です。
安村;その番組で種火が付いた所に、岩崎さんが油をまいたと言う事ですか。私はあの百名山ブームで遭難が増えたので、岩崎さんが諸悪の根源だと思っていました。
岩崎;皆さんそう思っていますが、私はただ片棒を担いだだけですよ。
安村;すみません。有名になると足を引っ張ったり頭を叩く人がいますが、大変ですね。岩崎さんが起こした百名山ブームが登山の敷居を下げ、登山のすそ野を広げた功績はとても大きいと思います。その結果遭難が増えたのは、百名山ブームで山が急に難しくなったからではなく、急に増えた登山者側の問題が大きいですね。
「ぼくの新日本百名山」 自分の良い山、自分の百名山を登りましょう
安村;その後「ぼくの新日本百名山」と言う岩崎さんの百名山を始められましたが、それについてお聞かせください。
岩崎;これは深田久弥さんの「日本百名山」に対抗したわけではありません。
本多勝一さん*が朝日ジャーナルで百名山ブームを「貧困なる精神」と批判していましたので、「深田百名山を登るのだけではなく、自分の決めた自分の百名山を登ると良い、例えば私の百名山はこうですよ」と言う、本多さんの百名山ブームへの批判に対する私の答えです。
*本多勝一氏;作家、元朝日新聞記者
安村;確かに百名山ブームへの批判は沢山あり、特に岩崎さんがやり玉に上がっていましたね。
本多さんの百名山ブームへの批判は私も読んだ事があります。何も考えないで人の決めた山をただ登るだけではそれで良いとは思いませんが、百名山ブームは登山の敷居を下げてすそ野を広げた功績は大きいと思います。そのお陰で登山は高齢化時代の生涯スポーツとして定着して、今は大勢の方が山を楽しんでいますよ。
ぼくの新日本百名山は、確か朝日新聞か何かでやりましたね。
岩崎;そうです。本紙と週刊朝日に連載されました。
深田百名山は47都道府県全てにはありませんが、私は47都道府県の全部から選んでいます。日本には良い山が沢山ありますので、最初は深田百名山で良いですが、その後は是非自分の良い山、自分の百名山を登ってください。山は自分の意志で登る事が大切です。
「地球を遠足」 日本の山歩きから世界の山歩きへ、新しい海外の山の楽しみ方を提案する
安村;2000年に入りますと、登山活動を日本から世界に広げ、「地球を遠足」という世界中の山歩きを始められましたが、どういうお考えでしたか?
岩崎;アルパインツアーから「岩崎さんの行きたい山に行って下さい」と言われて始めました。
旅行社の企画に乗るのではなく、私が行きたい山に行ったのですよ。
山やピークにはこだわらずに歩き、海外の人、自然、文化に接する事が目的で、「大人の遠足」ですよ。
安村;何か国、何座位行きましたか?
岩崎;第一回は2005年3月にネパールに行きました。50か国以上、100か所は行きましたね。但し、遠足ですからピークにはこだわらないので、100座は登っていませんね。
安村;しかし海外登山とか海外トレッキングではなく、地球を遠足とは絶妙なネーミングですね。
海外登山やトレッキングでは敷居が高いが、ただの観光旅行では物足りないと言う、山や自然が好きな方には「大人の遠足」と言う新しい海外の山の楽しみ方の提案だと思います。しかし、一般の人には海外の山はまだ敷居が高いのではありませんか?
岩崎;日本の山歩きはピークに立たないとピリオドが打てませんが、海外の場合は人や自然や文化が違いますので、そこに行くだけでまずは良しと出来ますので、海外の方が日本の山より敷居は低いですよ。
安村;コロナが終わったら遠足に行きたいところはありますか?
岩崎;ネパールに行きたいですね。連れて行ってもらったのではなく、私が始めて自分の意志で行った海外がネパールですから、こだわりがあります。
登山やトレッキングではなく、カトマンズでゴロゴロしていたいですね。
後編は、日本の登山界における課題を中心に対談が続きます。
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登山の総合スキルを体系的に学びたい方必見!
当サイト「GoALP – 山を楽しむ人のための安心・安全登山メディア」の監修者でもあり、登山を教えることのできる者が集まった非営利集団で、山岳事故を減らすための啓発活動をしている日本登山インストラクターズ協会(2013年創立・岩崎元郎代表)が、来春より開催する6期目「JMIA登山講習会」の受講者を募集しています。あなたも、一年かけて実際に山に登りながら山岳指導者の手ほどきをうけてみませんか?